【ボクシング】現役引退を発表!村田諒太の幼少期からのプロフィールや経歴

【ボクシング】現役引退を発表!村田諒太の幼少期からのプロフィールや経歴

2023年3月28日、ボクシングの2012年ロンドンオリンピックミドル級金メダリストで元WBA世界ミドル級スーパー王者の村田諒太さんが都内で会見を開き、現役を引退することを正式に発表しました。

2022年4月に行われた村田諒太 ゴロフキンとの王座統一戦が現役最後の試合になりました。

日本人選手として初めてアマチュアとプロの両方で世界の頂点に立つという偉業を成し遂げた村田諒太さん。

そこで今回は、村田諒太の幼少期からのプロフィールや経歴についてまとめてみました!

目次

村田諒太(むらた りょうた)さんのプロフィール

  • 生年月日:1986年1月12日
  • 年齢:37歳
  • 出身地:奈良県奈良市
  • 身長:183cm
  • 血液型:AB型
  • 出身校:東洋大学経営学部経営学科
  • 所属:帝拳ボクシングジム

父親も母親も公務員の家庭に、3人兄弟の末っ子として誕生した村田諒太さん。小学6年生の時に両親が離婚するも、離婚後も同居を続ける両親。そういった複雑な家庭の事情が原因となり、中学時代は素行も悪く喧嘩をするなど荒れている時期もありました。

村田諒太さんの経歴

奈良市立伏見中学校時代

5歳から水泳を始め、中学では陸上部に所属。奈良市大会では1500m走で4位の成績を収めるも、長続きはしませんでした。

ある日、金髪で登校した村田諒太さん。当時の担任・北出忠徳先生に呼び出され「お前は何かやりたいことはないんか?」と問われます。すると村田諒太さんは「ボクシングやったらやるわ」と答え、これをきっかけにボクシングを始めることに。

北出先生のサポートにより、週末は地元の奈良工業高校(現・奈良県立奈良朱雀高)が主催するボクシング教室に通うも、練習が辛く、たった2週間で行かなくなってしまいました。

その後、再びボクシング教室に通うようになりますが、2カ月後には足首を負傷。それ以降は奈良工業高校のボクシング教室に姿を見せることはありませんでした。

中学3年生の時、大阪の進光ボクシングジムに入会し、これを機に本格的にボクシングを始めます。

南京都高等学校時代

高校は高校ボクシング界の名門・南京都高等学校に進学。同校からは村田諒太さんの他にも、元WBC世界バンタム級の山中慎介さん、元WBA世界スーパーバンタム級の久保隼さんなど多くの世界チャンピオンが誕生しています。

入学後から徐々に頭角を現し、高校2年生の時には全国選抜、高校総体、国体の高校3冠を達成。また、3年生の時には全国選抜と高校総体でチャンピオンに輝き、高校時代は5回のタイトル獲得を成し遂げました。

東洋大学時代

大学は大学ボクシングの強豪・東洋大学に進学し、ボクシング部に所属します。大学時代の主な成績は下記の通りです。

開催年大会名成績
2004年全日本ボクシング選手権大会優勝
2005年キングスカップ国際ボクシングトーナメント銀メダル
アジアアマチュアボクシング選手権(ミドル級)銅メダル
2007年全日本ボクシング選手権大会優勝

2008年1月の五輪・アジア1次予選では準決勝敗退、続く3月の五輪・アジア2次予選でも初戦敗退を喫し、北京五輪の出場権を手にすることができませんでした。そしてこれを機に現役引退を決めます。

引退後

2008年3月に東洋大学を卒業した後は、母校である学校法人東洋大学に就職し、大学職員の傍らボクシング部のコーチとして勤務。

しかし、2009年2月に同校のボクシング部元部員が覚せい剤取締法違反容疑で逮捕され、同校のボクシング部は活動自粛を強いられることに。関東大学リーグも1部から3部へ降格させられました。

村田諒太さんは教え子の事件を防げなかったことに責任を感じ、また自身が現役復帰し全日本選手権で優勝すれば、東洋大学ボクシング部の汚名返上になるのではと考え、現役復帰することを決意しました。

現役復帰後

1年半ぶりに現役に復帰した村田諒太さんは、2009年~2011年にかけて全日本選手権で3連覇を果たします。また、2011年7月開催のインドネシア大統領杯(ミドル級)では、国際大会初優勝を飾りました。

さらに、同年の10月に出場した世界選手権(ミドル級)では、日本人として初の決勝進出を果たすも、僅差の判定負けとなり銀メダル獲得となりました。この大会で村田諒太さんはロンドン五輪出場権を獲得しました。

2012年ロンドンオリンピック出場

16年ぶりに日本人選手がミドル級での五輪出場を果たし、村田諒太さんは第2シードとして出場。決勝でブラジルのエスキバ・ファルカン選手を破り、見事金メダルを獲得しました。

日本人選手によるボクシングでの金メダルは1964年以来、実に48年ぶりの快挙となりました。さらにはバンタム級を超えた階級でのメダル獲得は日本人初となる偉業を成し遂げました

プロ転向後・WBA世界ミドル級王座獲得

アマチュアでの現役続行、海外留学、プロ転向など迷っていた村田諒太さんですが、日本ボクシング連盟からの引退勧告により、2013年4月12日にプロ転向を発表し、三迫ボクシングジムに所属することが決まりました。

2013年4月16日、後楽園ホールで行われた公開プロテストマッチ(フジテレビ「EXCITING TIME」)で見事合格。

2017年5月20日には13戦目にして初の世界タイトル戦、WBA世界ミドル級レギュラー王座決定戦が行われました。試合を優勢に進めているのは村田諒太さんの方に見えましたが、結果はまさかの判定負け。この判定は「疑惑の判定」とも言われ大騒動となりました。

そして、2017年10月22日、WBA世界ミドル級レギュラー王者のハッサン・ヌダム・ヌジカム選手と再戦し、7回終了TKO勝ちを収め、日本人としては22年ぶり2人目のミドル級世界王者に輝きました。

その後、2018年4月15日に初防衛に成功するも、2018年10月20日にはWBA世界ミドル級3位のロブ・ブラント選手相手に防衛に失敗し、王座から陥落しました。

WBA世界ミドル級王座返り咲き

2019年7月12日、WBA世界ミドル級王者のロブ・ブラント選手と再戦を行い、2回2分34秒TKO勝ち。9カ月ぶりに王座返り咲きを果たしました。

そして、2019年12月23日、WBA世界ミドル級8位のスティーブン・バトラー選手を相手に、5回2分45秒TKO勝ちで初防衛に成功しました。

IBF世界ミドル級王者・ゲンナジー・ゴロフキン選手との対戦

2021年11月12日、村田諒太 ゴロフキンの2団体王座統一戦が12月29日にさいたまスーパーアリーナで行われることが正式に発表されました。

しかし、12月3日、新型コロナウイルスの変異株オミクロン株の影響により、2団体王座統一戦の延期が決定し、4月9日に変更となりました。

4月9日、ついに村田諒太 ゴロフキンの2団体王座統一戦という日本ボクシング史上最大のビッグマッチが実現。序盤は村田諒太さんが優勢な場面もありましたが、結果は9回2分11秒TKO負けを喫し、WBAスーパー王座から陥落することとなりました。

引退

2023年3月28日に都内で会見を開き、正式に引退を発表。2月22日に行われた2022年度年間表彰式の際には、ゴロフキン戦について「僕の中では最後と思っている。」と述べ、事実上の引退を表明していました。

引退会見で村田諒太さんは「ボクサーとしては引退だが、引退という名のスタートだと思っている」と話し、「アスリートは夢がかなうと今後のキャリアに熱量が持てない人がいるが、自分自身がこれからのキャリアを作り、アスリートのロールモデルを示したい」と今後の意気込みについても語りました。

村田諒太さんの現役時代の戦績は下記の通りです。

  • アマチュア時代:138戦 119勝 (89KO・RSC) 19敗
  • プロ時代:19戦 16勝 (13KO) 3敗

まとめ

今回は2023年3月に現役引退を表明した、ロンドン五輪ミドル級金メダリストで元WBA世界ミドル級スーパー王者の村田諒太さんのプロフィールや経歴についてまとめました。

村田諒太さんは、オリンピックで金メダルを獲得した後にプロで世界王者に輝いた唯一の日本人選手であり、村田諒太 ゴロフキンとの2団体王座統一戦には敗れたものの、日本ボクシング史に名を残す活躍を見せてくれました。

村田諒太 ゴロフキン戦が終わって以降は、1日3~4時間英語の勉強をし、社会人としての基礎作りにも励んでいたそうで、今後村田諒太さんがどのような形で活動されるのか大変気になります。

村田諒太さんの第2の人生での活躍を期待しています!

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