【WBC 2023】侍ジャパン・吉田正尚の幼少期からのプロフィールや経歴

【WBC 2023】侍ジャパン・吉田正尚の幼少期からのプロフィールや経歴

2023年3月8日に開幕するWBC 2023のメンバーが1月26日に発表されました。多くのメジャーリーガーも選出され、過去最強メンバーとも評されています。その中でクリーンアップを務めると予想されるのが、2023年シーズンからMLBに挑戦する吉田正尚選手です。環境が変わる選手は国際大会への出場を辞退するケースが多い中で、吉田選手は日本代表として戦ってくれることになります。MLBへの適応やキャンプへの不安などがある中で参加してくれるというのは非常に心強いですよね。

そこで今回はそんな吉田正尚選手についてプロフィールから徹底調査していきます。

目次

吉田正尚(よしだ まさたか)プロフィールや学生時代

  • 生年月日:1993年7月15日
  • 年齢:29歳
  • 愛称:マッチョマン
  • 出身地:福井県福井市
  • 身長:172cm
  • 体重:79.8 kg
  • 投球・打席:右投左打
  • ポジション:外野手
  • プロ入り:2015年(ドラフト1位)
  • 所属:敦賀気比高等学校、青山学院大学、オリックス・バファローズ (2016 – 2022)、ボストン・レッドソックス(2023 – )

幼少期(中学校まで)

野球を始めたのは6歳のときで、福井市立麻生津小学校在学中は麻生津ヤンキースという地域の少年野球チームに所属していました。福井市足羽中学校在学中は、ボーイズリーグの鯖江ボーイズに所属し、西山公園グラウンド(両翼91メートル)での練習では、吉田選手が場外への打球がをあまりにも打つため、ライトフェンス奥に大きな防御ネットが設置されるという伝説を持っています。

敦賀気比高校時代

敦賀気比高校への進学後は、1年の夏にいきなり4番打者として夏の甲子園に出場しました。帝京高校との初戦でチームは惜しくも負けてしまいましたが、吉田選手は1安打を放つ活躍を見せました。その年の秋には福井県大会優勝・北信越大会準優勝を果たし、春のセンバツに出場しました。準々決勝進出に大きく貢献しました。準々決勝ではオリックスでチームメイトだった山﨑福也選手を擁する日大三高校に敗れ、吉田選手も3打数無安打に抑えられました。

2年の夏以降は甲子園球場での全国大会には出場できなかったため、春夏を通じて2大会の出場にとどまりましたが、4試合で打率.313、16打数5安打、2打点という成績を残しました。

青山学院大学時代

青山学院大学への進学後には、1年の春季リーグ戦から4番打者に抜擢され、打率.311、1本塁打、7打点を記録し、指名打者としてベストナインに選ばれる活躍を見せました。秋季リーグ戦からは、2年先輩でオリックスのチームメイトだった杉本裕太郎選手とクリーンアップを組み、戦います。3年の秋季リーグ戦では、打率.352、3本塁打という内容で、外野手として2度目のベストナインを獲得しますが、チームは2部に降格する屈辱を味わいました。1部復帰のラストチャンスとなる4年の秋には、打率.400、5本塁打を記録する大活躍を見せましたが、チームの昇格はなりませんでした。この年、ユニバーシアードの日本代表に選出され、主に4番打者として優勝に貢献しました。周りの選手が東京六大学などで活躍している中で、青山学院大学は東都リーグの2部という悔しさを味わったそうで、その悔しさが今の原動力にもなっていると話していました。

2015年のNPBドラフト会議で、オリックスから1巡目で指名をうけ、契約金1億円、年俸1500万円、背番号は吉田選手の希望で34という条件で入団しました。ちなみに、この年JR西日本から杉本裕太郎選手を10巡目で指名し、大学以来のチームメイトになりました。

プロ入り後の経歴

2016年(プロ1年目)

2016年には、春季キャンプ前の新人合同自主トレーニング中に球団OBであるイチロー(当時はマイアミ・マーリンズ所属)と初めて対面。イチローから直々に声をかけられ、1年目からの活躍が期待されました。しかし怪我にも見舞われ、キャンプは二軍での生活が長くなりました。オープン戦最終カードの阪神との3連戦から再び一軍へ合流すると3試合全てでスタメンに起用され、藤川球児から京セラドーム3階席前面の壁を直撃する本塁打を放つなど、オープン戦通算で13打数4安打を記録、アピールをしました。

西武との開幕戦で「1番・指名打者」としてスタメンで一軍公式戦にデビューを果たしました。7回表の第3打席で一軍公式戦初安打を打つなどフル出場で5打数2安打を記録。さらに開幕戦から6試合連続安打を達成します。

しかし、またここでも怪我に見舞われます。連続出場による疲労もあり、腰椎の椎間板症を発症し、外野の守備へ就けないほどにまで症状が悪化したため、4月24日に出場選手登録を抹消されました。

8月12日に一軍へ復帰し8月18日の北海道日本ハム戦で一軍公式戦初本塁打を放つと、8月26日の楽天戦以降は30試合で3番打者に起用されると9本塁打を記録し、27日の同カードでは1回表の第1打席から2打席連続で本塁打を打つ活躍を見せました。チームのシーズン最終戦であった10月1日の楽天戦ではオリックスの新人選手としては1969年の加藤秀司さん以来47年ぶりに一軍公式戦の4番打者に起用されました。

レギュラーシーズン全体で63試合に出場、打席数258ながら打率.290(リーグ9位相当)、10本塁打、34打点、OPS.854(リーグ4位相当)、RC27は6.09(リーグ8位相当)を記録しました。

シーズン終了後に台湾で開かれたアジア・ウィンター・リーグでは、全18試合に出場。打率(.556)、本塁打(6本)、安打数(30安打)、塁打数(57塁打)、打点(29打点)の5部門でいずれもトップの成績を残し、最優秀打者に選出されました。

帰国後の12月20日に年俸2100万円(前年から600万円増)という条件で契約を更改し、プロ一年目を終えました。

2017年(プロ2年目)

プロ2年目の2017年も怪我に苦しみます。オープン戦の終盤に腰痛が再発。その後の診察で急性筋性腰痛の発症が判明したため、二軍での開幕となりました。5月10日に、ウエスタン・リーグの広島戦で実戦に復帰をしますが、試合後に腰痛を訴えたため再び戦線を離脱しました。

7月9日の千葉ロッテ戦でこの年初めて一軍の公式戦に出場、翌10日の日本ハム戦では1回裏の第1打席で右翼スタンド5階席に推定飛距離130mの本塁打を放ち、復活を遂げます。その後は主に3番打者として起用され、2年連続の1試合2本塁打を2打席連続で記録。9月3日の西武戦で2年連続の一軍公式戦シーズン2桁本塁打を達成しました。

10月4日に臀部の膿を除去する手術を受けましたが、手術後にも一軍公式戦2試合へ出場しました。

腰痛や手術の影響で一軍公式戦への出場は64試合(268打席)にとどまるも、打率.311(リーグ2位相当)、12本塁打、38打点、OPSは.928(リーグ3位相当)、RC27は7.41(リーグ3位相当)を記録しました。

シーズン終了後の「第1回アジア プロ野球チャンピオンシップ」に、日本代表として選ばれることが内定していましたが、膿を除去する手術を受けたため、代表を辞退、秋季キャンプへの参加も辞退したうえで、11月下旬に腰の手術を受けました。

12月6日に、推定年俸3100万円(前年から1000万円増)という条件で契約を更改、プロ2年目のシーズンを昨年を上回る結果を残し、終えました。

2018年(プロ3年目)

プロ3年目の2018年は、前年に腰の手術を受けたことを背景に、春季キャンプを二軍で迎え、体幹トレーニングなどへ取り組み、キャンプ終盤から一軍へ合流しました。

3月30日にはソフトバンクとのシーズン開幕戦に「3番・左翼手」としてスタメン出場を果たします。6月13日の広島戦で3年連続のシーズン2桁本塁打を記録。全18試合に出場すると打率.397、3本塁打、10打点、出塁率.477、得点圏打率.500という好成績でチームをパ・リーグ球団の最高順位の2位へ導き、交流戦のMVPに選出されました。交流戦の最終戦で右足の関節を捻挫し、自力で歩けないまま代走を送られましたが、翌日の公式戦では代打での出場を経てスタメンに復帰しています。

オールスターゲームにはファン投票・選手間投票ともにパ・リーグ外野手部門の3位に入り初出場。レギュラーシーズンでは全143試合への出場を果たし、規定打席へ初めて到達。打率.321、26本塁打、86打点という好成績を残し、オフに5400万円増の8500万円で契約を更改しました。

2019年(プロ4年目)

プロ4年目の2019年は、3月上旬に開催されたメキシコ代表と日本代表の強化試合に、プロ入り後初めて日本代表の一員として選出されました。試合ではクリーンアップの一角を任され、第2戦では1回裏の第1打席で満塁本塁打を放つ活躍を見せました。

レギュラーシーズンは開幕から4番打者に起用されましたが、開幕当初は打率が1割を切るほどの打撃不振で、シーズン初本塁打が開幕11試合(通算49打席)目の4月11日の千葉ロッテ戦の第3打席とかなり出遅れました。それでも5月21日にオリックスの選手としては初めて入団1年目からの4年連続シーズン2桁本塁打を達成しました。

前年にMVPを獲得したセ・パ交流戦で調子を落としましたが、オールスターゲームにはファン投票・選手間投票でパ・リーグ外野手部門2位に選出され、2年連続で出場を決めました。。7月13日に甲子園球場で行われたオールスター第2戦でオールスター初本塁打を打ち、パ・リーグの選手から唯一の敢闘選手に選ばれました。レギュラーシーズンの終盤には西武の森友哉選手とリーグ首位打者争いを展開し、最終的に打率.322で、打率.329の森選手には僅差で及びませんでした。

2019年シーズンは2年連続の全143試合出場を果たし、自己最多の29本塁打を放ち、7月度と9・10月度の月間MVPにも選ばれ、チームとして谷佳知選手以来の2年連続ベストナイン選出も果たしました。

さらに11月に開催された第2回WBSCプレミア12に日本代表として出場を果たし、日本代表のクリーンナップとして活躍しました。プレミア12終了後の11月29日に推定年俸2億円(前年から1億1500万円増)という好条件で契約を更改。オリックス生え抜きの選手が入団5年目で1億円以上の年俸となったのはイチローさんに次いで2人目の快挙です。

2020年(プロ5年目)

プロ5年目の2020年には、8月に打率.430を記録するなど、シーズンを通じて高い打率を維持し、打率.350でチームの生え抜き選手としてはイチローさん以来20年ぶりに首位打者のタイトルを獲得しました。平成生まれの選手がレギュラーシーズンの規定打席に到達したうえで、.350以上の打率でシーズンを終えた初めての選手になりました。さらにリーグで10番目に多い492打席に立ちながら、三振の総数はわずか29個でリーグの規定打席到達者では最少、シーズン30三振以下は正田耕三さん以来、28年振りの記録です。こう言った活躍があり3年続けてパ・リーグの外野手部門でベストナインに選出されました。

シーズン終了後、球団との契約交渉を初めて代理人に委ねながら、沖縄県内で自主トレーニングに臨みました。更改後の年俸は2億8000万円で、日本プロ野球在籍6年目で日本人野手としては歴代最高額となりました。更改後の記者会見では、ポスティングシステムを通じたMLBへの挑戦を検討する可能性があることを示唆し、そのビジョンを球団にも伝えました。

2021年(プロ6年目)

プロ6年目の2021年には、チームの選手会長へ就任しました。5月に大学の先輩でもある杉本裕太郎選手が4番打者に固定されたことで、大学時代に続いて3番吉田・4番杉本という打線を形成しました。

5月23日のソフトバンク戦で、日本プロ野球史上301人目の公式戦通算100本塁打を達成し、オールスターゲームでは、ファン投票のセ・パ両リーグ最多得票選手として出場、ホームランダービーでは初優勝を果たしました。さらに2020東京オリンピックに日本代表の一員として出場し、全5試合に3番打者として先発出場し、打率.350を記録するなど、チームの金メダル獲得に大きく貢献しました。

レギュラーシーズンの再開後もチームとともに好調を維持していたが、9月3日のソフトバンク戦、9回表の打席で遊撃へゴロを放ったところ、一塁を駆け抜ける際に左足を負傷し、5日付で出場選手登録を抹消されたため、2018年からの一軍公式戦連続出場記録が512試合で途絶えました。5月26日の楽天戦で復帰しますが、10月2日のソフトバンク戦で右手に死球を受け途中交代、右尺骨骨折と診断され再び戦列離脱することになりました。それでも最終的には打率.339を記録し、パ・リーグでは2002年、2003年の小笠原道大さん以来、球団ではイチローさん以来2人目となる2年連続の首位打者を獲得、出塁率も.429で自身初の最高出塁率のタイトルを獲得しました。なお、長打率.563、OPS.992、得点圏打率.400もリーグトップの結果です。

11月10日のクライマックスシリーズ第1戦で骨折からわずか39日で復帰を果たし、ヤクルトとの日本シリーズでは第1戦ではサヨナラ打を放ち、第3戦以降は未完治の状態ながら守備にも就くなど奮闘しましたが、惜しくも日本一を逃しました。

12月8日に両足関節鏡視下三角骨摘出手術を受け、足の痛みへの不安を除去しました。12月22日には、1億2000万円増となる年俸4億円+出来高払いで契約を更改し、背番号が7に変更されることが発表されました。7年目での4億円到達はNPBの野手ではイチローさんに次ぐ2人目のスピード記録となりました。

2022年(プロ6年目)

プロ6年目の2022年は新型コロナウイルスへの罹患や、左大腿部裏の軽度筋損傷により登録抹消されました。それでも7月には24試合で打率.322、4本塁打、20打点を記録し自身5度目の月間MVPを受賞、優勝争いが激しくなった9月はさらに調子を上げていきます。9月13日の楽天戦では前日12日の最終打席から3打席連続ホームランを放ち、9月19日のソフトバンク戦では先制2ラン本塁打を含む3安打4打点の活躍、9月24日の楽天戦では2ラン本塁打を含む自己最多タイの6打点を記録するなど、打率.416、7本塁打、23打点という凄まじい活躍で月間MVPを受賞し、リーグ連覇に大きく貢献しました。

打率は.335を記録し6年連続で打率3割越えを果たすも、大ブレイクを果たした日本ハムの松本剛選手が打率.347を記録し、3年連続の首位打者のタイトルを逃しました。ちなみに、パ・リーグで打率3割以上を記録した選手は、松本選手と吉田選手の2名のみでした。出塁率は.447を記録し2年連続で最高出塁率のタイトルを獲得。打点は自己最多となる88打点(リーグ2位)を記録し、OPSは自己最高となる1.008(リーグ1位)を記録した。

ソフトバンクとのクライマックスシリーズでは第1戦と第4戦で本塁打を放つなど、打率.462(13打数6安打)・3打点の活躍でチームを日本シリーズへ導き、シリーズMVPを受賞しました。ヤクルトとの日本シリーズでは第4戦までで7四球と徹底して勝負を避けられ、4試合でわずか2安打に抑えられるも、第5戦では5回にチーム第1号となるソロ本塁打を放つと、同点で迎えた9回にはこの日2本目となるサヨナラ2ラン本塁打を放ちました。シリーズのサヨナラ本塁打は球団初で、2年連続のサヨナラ打は史上初の記録です。このサヨナラ勝ちで対戦成績を2勝2敗1分の五分に戻すと、続く第6戦・第7戦で連勝し26年ぶりの日本一を達成し、シリーズ優秀選手に選出されました。

シーズン終了後の11月17日にポスティングシステムを利用してのMLB挑戦が承認され、12月7日にMLBからポスティング申請が受理、2022年12月16日にボストン・レッドソックスと5年契約を結び、背番号は2022年と同じ7となりました。同日中に入団会見が行われ、 入団会見ではレッドソックスが30球団で1番好きだったことが入団の決め手になったと話していました。

物へのこだわりも好成績の要因

野球を始めたころからバットへのこだわりが強く、青山学院大学在学中には、リーグ戦などでメープル製のバットを愛用し、プロ1年目には、様々な種類のバットを探りながら使い分けて、その年のオフシーズンには自分にベストなバット(最高の1本)を求めて、バットの製造工程を見学しました。2年目以降は、バットを統一しながらも、職人とのコミュニケーションや微調整を通じて「最高の1本」に近付けています。また、「湿気によってバットの重さが変わるだけで(バッティングの)結果も微妙に変わる」とのことで、バットケースには乾燥剤を必ず入れる徹底ぶりを見せています。日本よりもさらに過酷な環境となるMLBでは、この対応が必ず生きてくることでしょう。

奥様は元モデルのゆり香さん

吉田正尚選手は2017年10月22日に管理栄養士で、女性実業家、フィットネスモデル、元フリーモデル、リポーターと様々な肩書を持つゆり香さんと結婚しました。

ゆり香さんは事務所には所属しない異例のフリーモデルという形式で活動をしており、ミスユニバースや日本最大級のファッションイベントに出演し、ネットの番組やイベントでリポーターも務めたこともあります。

大学卒業と同時に管理栄養士の国家試験に合格し、管理栄養士としてキャリアを歩みます。さらにスポーツクラブやリハビリ施設で取り扱われる運動記録システムのIOT研究開発に携わります。その傍らセミナーやレシピ提案、栄養指導などを行い、スポーツアロマトレーナーを取得し、スポーツと栄養学のスペシャリストとして活動を始めるなど、フリーで多方面に活動する中で、株式会社LiLy Foodistを起業し、現在に至ります。

いくつもの顔を持ちながら、吉田選手がベストパフォーマンスをできるようにフォローをしていると考えると、とてつもない女性ですね。

ちなみに、吉田選手との間に子供もおり、2020年7月7日に長女が、2021年12月12日に次女が誕生しています。これから家族4人のアメリカ生活がスタートとなります。

まとめ

2023年シーズンからMLBに挑戦し、WBC2023に選出された吉田正尚選手についてまとめてきました。日本代表としては三振が少なく、高い出塁率を誇る吉田選手が打線にいるだけでも得点の期待ができますよね。まずはWBCで優勝し、その勢いのままMLBに乗り込んでもらいたいですね!

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